ものをつくる喜びは「手を動かす」ことから始まるのだと思う。トンカチをトントンたたく。ペンキをベタベタ塗る。ノコギリでギコギコと木を切る・・・。難しいことを考えずに手を動かすこと。これがものをつくる喜びの原点みたいなものだと思うんです。実際、原っぱ大学にくる2歳児も3歳児も大工仕事が大好き。

なので原っぱ大学ではとにかく「手を動かす」ことを大切にしてきたつもりです。いいからやってみよう、やってみてから考えよう、と。手を動かすことをビビらない。手を動かすことに身構えない。

↑2歳児のはじめてのトンカチ。

ただ、最近思うのはどうやらその「次」があるらしい、ということです。ただ感じるままに「手を動かす」の次があるっぽい。(そりゃ、あるよね・・・)

この興味は、この冬に新しく立ち上げた10歳‐15歳向けの原っぱ大学の場「セイシュンラボ」により更に強くなりました。「セイシュンラボ」はものづくりのプロ、HandiHouse projectの皆さんと一緒に彼らの拠点 Handi Labo内に大量の廃材から「秘密基地」をつくりつづけるというもの。

昨日、その体験会がありました。

10歳‐15歳の子どもが20名ほど集まりました。さすが、原っぱ大学に集まってくる子ども達。道具と材料があるとみんなサクサクと手を動かせる。自分の感覚の赴くままに「ものづくり」を楽しめる。そのセンスたるや素晴らしい。とにかく手を動かし続けてなんらかの「もの」を作っている。小屋、テーブル、イス、本棚、乗り物…。

ひとりひとりひたすら手を動かしている様子。尊いことです。

しばらく見ていると子どもによってものの作り方に違いがあるのに気づきました。自分が描いているゴールイメージというか、作りたい「全体像」に向けて順を追って一歩ずつ近づけていっているように見える子と、思いついた「部分」ごとに手を動かしているように見える子。※あくまで僕の主観、印象です

作っているものの「全体」をとらえているように見える子と「部分」に焦点を当てているように見える子。

どっちがいい、という話ではないのですが、「部分」に焦点を当てている子は「全体」になかなかたどり着きません。小屋をつくるのにまずドアから、次に鍵、次に床・・・。という具合。ひとつひとつは面白いのだけど、いつまでたっても統合された形になっていかないから途中で飽きて別のことに興味がうつることが多い。(←このあり方を批判しているではありません!!念のため。『部分』にフォーカスしているからその部分についてはすごく面白いアイディアの部分が出来上がるし、新しい興味にどんどん移っていくから、面白い即興のものづくりがどんどん生まれる)

いっぽう、「全体」をとらえているように僕から見える子は地味な作業でも飽きずにじっくり繰り返し、最終的に精度の高い「もの」にたどり着くように見えます。

原っぱ大学はこれまで手を動かして「部分」をつくることを楽しむ場をたくさん作ってきた気がします。でも、「ものづくり」の楽しみを広げようとすると、それだけではなくて「全体像」をイメージしてから、それを形作るために部分を積み上げていく、そんなものづくりの在り方も大事になってくる気がします。実際、僕自身がDIYでものをつくるときは全体像のイメージから入る場合がほとんどです。

a)「部分」を積み上げるものづくりと、b)「全体像」からブレークダウンするものづくりは、プロセスが根本的に違う気がするんです。そして僕の経験上、小さい子は大抵、a)「部分」からのものづくりスタイル。大人は大抵、b)「全体」からのものづくりスタイル。

この2つのスタイルはどこで入れ替わるのだろう?子どもはどこでb)「全体」からのスタイルを手にするのだろう?そしてそのときにa)「部分」からのスタイルは手放しちゃうのかしら?それとも自在にどちらも使いこなせるものなのかしら…。

「全体」をとらえることは「成長」なのかしら。それは「遊び」の中で身に着けていけるものなのかしら。あるいは「学習」や「訓練」が必要とするものなのかしら…。

「セイシュンラボ」で向き合う10歳~15歳の子どもらのものづくりスタイルには両者が混在しているように感じました。
 
 
ここまで書いてみて、b)「全体」からのものづくりスタイルを獲得するのには2つのことが大事なのでは、と思い至りました。
1)頭の中に「イメージ」する像の精度
2)イメージしたものと形にしていくものを高速で行き来し補正・妥協できるマインド

1つ目は何をイメージできるかが何を作るかに直結するのではないか、というここと(当たり前か)。例えば「小屋をつくる」と言った時に浮かぶのが躯体の構造なのかドアノブや窓枠なのかで作るときの手順がまるで変ってくるはずです。

実際、「セイシュンラボ」の現場では小屋を作り始めた子どもたちはまず床材のセレクトから作って、次に窓、入口の引き戸、引き戸につける鍵…という具合。この段でまだ小屋には屋根も、壁も、柱すらない…(柱が作られる兆しもない)。これはこれで斬新で面白いのだけど…。

ただもし、「部分」に偏らずに全体的なイメージをもつことができれば、b)「全体」からのものづくりの足掛かりになるのではないかしらと思うのです。おそらく、ドアノブや床材の前に柱を組んで構造を組み上げようとすると思う…。

話が若干ぶれるのだけど、描く「イメージの偏り」ってのはそれはそれで爆発的に面白くて…。冒頭の写真の車みたいなもの、はセイシュンラボの参加者の子が作り上げた「最先端モビリティ」なんです。自分でハンドルの車輪を回すことにより前進していく人力車。たぶん、彼の「偏ったイメージ」によってこの世に出現しました。おそらく、「全体像」から描いていたらこのヘンテコな乗り物は具現化しなかった。結果、モビリティとしてはうまく機能しなかったのだけど、こういう面白さは「部分」に偏ったイメージから生まれてくるんだろうなと思いました。
 
 
話し戻して2つ目の点について。
そのイメージを形にしてみると、イメージと現実とのズレが絶対に起きるからそのズレを補正していく。イメージを補正するのか、形にしたものを補正するのか、それを繰り返して、イメージと形の「妥協点」を探っていくマインド。あきらめずにあの手この手を使って程よい「妥協点」を探る。これが大事な気がする。

上のモビリティで言えば、おそらく車輪の幅の問題があったんじゃないかな、と僕は思う。彼はうまく機能しなかったことでそのアイディアを手放しちゃったけど、もしかしたら車輪の幅を太く、グリップ力のあるものにしたら機能したかもしれないんです。
 
 
他にも大事なことがあるのだと思うもけど…。でもまあいいや、この2つが大事だとして人はどうやってそれを手にしていくのだろう。やっぱり、「勉強」や「訓練」が必要なのかしら。あるいは生来のセンスによるものなのかしら?遊びながら、自然と手にできるものではないのかしら…。

a)「部分」からのものづくりの爆発力、偏った面白さはすごく好き。失いたくないな。でもb)「全体」からのものづくりを獲得できるとものづくりの幅は俄然広がるし、ものをつくることはぐんと自由に、ぐんと面白くなると思う。両者を自在にいったりきたりできたら最高だよなぁ・・・。

HandiHouse projectの坂田さんが今日、ポロリとヒントを言ってくれました。「隣で僕ら大人が本気でモノを作るのが一番だと思う。そこまでできるんだ、そんなやり方があるんだ、っていうのを見せて、気づいてもらうのが一番だよきっと」

さすがだ。

そう、願わくば大人の「押し付け」や「訓練」や「勉強」ではなくて、流れるように遊んでいてふと気づいたら「ものをつくる遊び」の幅が広がっている、そんなことができないかしら、と思う次第です。

いろいろと試していってみようと思います。答えがなくてスンマセン。

ものづくりのプロであるHandiHouse projectのみんなとつくっていく「セイシュンラボ」は僕にとってはまさにそんな「ものづくり」と「遊び」の接点を探るラボなのであります。「セイシュンラボ」はただいま、体験会を実施しており(定員に達してしまっています、ごめんなさい)、来春に正式オープン予定です。ぜひ遊びにきてくださいまし。最後は宣伝でした。