友人とご飯を食べながら高校生の息子さんの話になりました。彼は三度の飯よりゲームが好き。話を聞いていると「受け身でなんとなくゲームしかやることがないからゲームをやっている」のではなく、人生をかけて、自分の情熱と魂を注ぐものとしてゲームをプレーしている様子。

親ではない身としては無責任に、そんなに情熱をかけられるものに十代で出会えたって幸福じゃないか、と思ってしまう。そして「プロゲーマーになればいいじゃん。早晩、プロゲームでメシが食える時代が来るよ」なんてこれまた無責任なことを言い放ってしまう…。

母親である友人は「わかるよ、わかるけどゲームでメシを食うってどうなのよ、って思っちゃうのよね」とのこと。なんとなく、今の時代の「ゲームでメシを食う」は僕らの時代の「バンドでメシを食っていく」ってのに近いんだな、と思った。

ゲームに対しての情熱がものすごい彼は高校に通っていることの意味を見出せないという。一応、母さんとの約束だから通っているけど、成績は見られたものじゃないそう。でもそこまで自分が好きなものが明確なら、いっそ学校なんて辞めちゃってゲームのプロを真剣に目指せばいいじゃん、そのための“やるべきこと”を積み重ねていけばいいじゃん、とこれまた無責任に思ってしまいます…(ああ、無責任)。

そんなやり取りを経て彼女はこんなことをポロリと言いました。

「“メシを食っていく”こととゲームが死ぬほど好きということが彼の中で一直線でつながっていないみたい。彼は『ゲームに対しての情熱は純粋なもんなんだよ』っていうのよ。」

おおお。確かに。自分のなかにいつの間にか組み込まれていた「前提条件」に気づかされた言葉でした。

「“メシを食っていくこと”が大事。そこまで好きならばそれでメシを食っていく方法を考えろ。メシを食っていくための修練をすべきだ。情熱を注ぐならメシを食えるようになれ。食えないならそれは趣味にとどめておけ(代わりに勉強しろ、進学しろ)」

なんとなくそんな思考回路を無意識のうちにたどっていなかったかしら。

「ゲームがとにかく好き」という彼の情熱はそれ単体で非常に尊いエネルギーであるはずだし、そんなに好きなものに出会えた彼を祝福したらいいと思う。が、いつの間にか「熱中することがあるのは素晴らしい。ただしそれでメシが食っていけるなら」と但し書きを付している自分がいたことに気づかされました。

「メシを食っていける」。これが情熱を注ぐことの必要条件?

そんな疑問の一方で、思春期男子(中1)を抱える父親としては「自立してメシを食える人間になってほしいし、そうなれるように道筋をつくるのが親の責務」と考えている自分がいたりします。

さらに一方で僕は原っぱ大学を通じて、「将来のこととか考えず、今を感じよう、今を思い切り楽しもうぜ!」と言い放っています。将来からの逆算で今を過ごすのではなく、そういう先のことを置いておいて「今」を楽しむこと、感じることが大事だって話で…。これはこれで明確に大切だし、間違っていないと思う。

僕が対峙しているファミリーは未就学児、小学生の家族が多い。

じゃあ、小さいうちは「今」を全力で楽しんでよくて、中高生になったら「将来、メシを食う」ことと「情熱を注ぐほど好き」なことを一致させないといけないのか?

否。例えば部活動にいそしむ中高生に向かって「それで将来、メシを食っていく覚悟があるのか?」とは問わないと思う。「熱中するものがあるって素晴らしいね」と僕は呑気に喜ばしく思ったりする。

何なんだ、この支離滅裂な感じは。

ここまで考えて2つのことが気になってきました。

ひとつ。「メシを食っていく」という言葉に内包されるものはなんだろうか。ただ単に「食いつないでいければいい」ではない気がする。もうひとつは自分の中にある未知なるもの、不確かなものへの「恐れ」とも「警戒」ともつかない何かがありそうということ。

まずひとつめ。「メシを食っていく」=「生活していくお金を稼げている」とぼんやりと考えていたけど、本当にそれだけなのかしら?

例えば、彼のことでいえば、アルバイトとかいろいろな方法で生活費を稼ぎながら、ゲームに情熱を注ぐという生き方もあると思う。彼は好きなことを続けられているし、生活していくお金を稼げている。メシを食っていけているし、好きなことをできているから幸せだし最高じゃないか、ということになる。

でも、その生き方だと釈然としない感じが彼女(お母さん)の中に残るという。

うん、その感じもなんとなくわかる。

誤解を恐れずに書いてしまうと…、自分の息子が中年になってバイトで日銭を稼ぎながら家に帰って一人、ゲームをしている姿を想像してしまった。うん、釈然としない。
※そういう生活をしている人たちの生き方を否定したいわけじゃないです。ただ、自分のなかにある偏見というかある種の偏ったイメージを晒したくてあえて書きました。気分を害した方がいたら本当にすみません。

何が言いたかったかというと…。僕の中には(そしてたぶん彼女の中にも)、親としてのエゴというか期待値というかがあり、「子どもにこうなってほしい」みたいなぼんやりとしたイメージが「メシを食っていく」という言葉の中に組み込まれているのだと思う。そのイメージとのズレ、その想像の範疇から離れていきそうなときにモゾモゾするのだなと思ったということ。

ふたつめ。自分の中にある不確かなものへの恐れ、警戒心について。

部活動をがんばる中高生たちは自分の経験に照らしてその先がなんとなく想像できる。部活動の経験を自分のものとして、その先にいろんな選択をしながら高校を卒業、大学へ行ってサークルに入って、就活して…。「レール」と言ったらそれまでだけど、自分自身や自分の周囲の人が経験してきたある種パターンみたいなものがみえるから安心してみていられるのだと思う。

あるいは、彼が熱中するものが「ゲーム」ではなくて例えば、「料理」だったり「写真」だったり「プログラム」だったり「起業」だったりしたら、親としては多少躊躇するかもしれないけど、「ゲーム」よりは素直に受け入れやすい気がする。

それはたぶん、そういった領域に飛び込んで、ひとかどの人物になっていった人たちの話を僕らが伝え聞いていて、直接ではないにしろ「成功パターン」をイメージできるからなのだと思った。

「ゲーム」を選ぶなら「プロとして食っていける方法を考えろ」。

この僕の呪縛は、ゲーム業界でもトッププロであれば食っていけそうだという断片的な情報や事例、あるいは未来へのなんとなくの見通しがあるということに根差しているのだと思う。

つまりは「成功パターンに寄せろ」ということなのかもしれません。

とにかく今を楽しもう、と偉そうに言っているくせに(←僕のことです)、なんてことはない、結局は子どもの将来のことを考えるとなると成功パターンに寄せてしか発想できないということかしら…。

ここまで書いてみて思うのは、僕が抱くこの子どもへの勝手な期待値を手放すのは難しいし成功パターンから離れて想像をするのもなかなかできないだろうということ。そしてそれらを手放す必要はないんじゃないのかな、ということ。なぜならこの視座は僕自身のこれまでの経験に深く根差すものだから。

ただ、自分自身が過去の経験に縛られた、ある限界のなかで「親」をやっているんだ、ということを理解して子どもと接することができたらいいのかな、と思いました。

また、願わくば子どもが見つけた「情熱を注げるもの」に対して、「メシを食っていけるのかどうか」の1点でジャッジするのではなく。情熱を注げるものに出会えたことを祝福して、そこから彼らが何かを学ぶことを信じつつ、「情熱に任せて熱中する時間」を奪わない大人でありたいなと思いました。

自分自身を振り返った時に好き放題、思い切り遊んできた時間が僕の財産であり、今、「メシを食う」ことに直結していると言い切れると思う。でもまあ、それは蓋を開けてみないとわからないよなぁ。わからないけど、そんなメシを食う種みたいなものが「情熱を注げるもの」に傾ける時間から生まれると信じていたいな。楽観的に過ぎるかしら。

いずれにしろ、彼のような圧倒的な情熱を注ぐものと出会えた若者が僕らの想像しえない未来を切り拓いていくとするとそれはそれは、ワクワクすることであります。

※写真は今日、佐倉の原っぱ大学フィールドで出会った亀。ものすごいファイティングポーズで鍬に突撃中。なんという勇猛なお尻!カミツキガメというらしい。でかい(甲羅の大きさ30㎝ぐらい)。俊敏。攻撃的。亀のイメージを覆すすげーやつでした。名前の通り獰猛な特定外来種らしいのですが、バラして食べるとすごく旨いらしい。こんなのを捕まえて〆て食べられる能力ってのもまあ、ある意味、「メシを食っていく」力ですな(僕はこの亀との出会いの瞬間は食べることにまで頭が回らず、みすみす逃がしてしまいました)。